2016年08月29日

感動すること、表現すること

改めて言うまでもないのですが、私はピアノを使って音楽を表現することが好きです。それは一つの形として、自分の内面を表現していることになると思います。何かを表現するのは、能動的な行為で、受け身の行為としては(積極的にですが)、もちろん音楽を聴くこともそうですが、自然や絵画や建築や映画や本や様々な感動を与えてくれるものに接することになると思います。そこには垣根はありません。「自分がいいと思えるもの」という共通性があって、どの分野に属するかということはどちらでもいいです。
以前、自分に感動を与えてくれるものに接することは、自分の表現行為にどういう関係があるのだろうと少し考えました。その時気づいたのは、感動したら今度は自分が何かを表現したくなるということです。自分がいいと思えるものはたくさんあっても、音楽とその他の決定的な違いは、自分が行為者として表現したいと思えるのは音楽であって、絵を描きたいとか思わないわけです。そこに情熱の大きな差がある!
そういうわけで、これからも色々なものに感動し続け、その感動を表現の糧としていくだろうと思います。

8月に行った二つの美術館。

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何必館

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堂本印象美術館

何必館では村上華岳の絵が、堂本印象美術館では堂本印象の襖絵などが特によかったです(どっちも渋いな!)。シンプルな絵ほど、その線を選ぶセンスが感じられてすごいなと思います。


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2016年08月27日

今日の演奏

今日は「いるかショー」でした(うちの娘がそう言った(笑))、じゃなくて、「いるか喫茶バー」で1時間半BGM演奏してきました。
先月の演奏の後、よりBGMを意識して作った曲を6曲加えました。抑え目でもやはり自分としてはどこか抒情的というか、エモーショナルな感じを含みたいという気持ちがあって、そんな感じになっていると思っています。私が弾いてる1時間半の間、ずっといらっしゃったお客さんもおられたし、1人の方や友だち同士などがそこで過ごされる時間が少しでもいい雰囲気になればと思いつつ弾いています。
来月は24日(土)に演奏します。

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演奏後、紅茶を飲んでくつろいでいる。

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2016年08月14日

下鴨納涼古本まつり

下鴨納涼古本まつりに行ってきました。何年か前にも行きましたが、ちょうど今、何か本を読みたい気分だったからいいタイミングでした。
本が並ぶ糺の森は木陰がたくさんあって、小川もあるし、雰囲気的には涼しげですが今日はすごく暑かった! ずっと古本まつりのうちわをばたばたさせながら、少しずつ見ていきました。といってもすごい量で、本屋さんのようにジャンルごとに分類されているわけではないので(絵本とか、大型本とかぱっとみてわかるのもありますが)、適当にながめてなんとなく興味のありそうなものが並んでいるところで立ち止まって、気になるものはとりだしてめくってみるという感じ。大量に本があるからといって欲しい本がそう簡単に見つかるわけではなく(多分ジュンク堂の方が見つかる)、1時間ほどうろうろしてたでしょうか、暑いし、うちわで扇ぐのも疲れてくるし、だんだんうんざりしてきて「もういいわ」と夫に言った後、なんとなく見てたら以前も古本まつりで買ったことのある本屋さんがあって、もしかしたらと本棚を眺めていたら、ありました、興味そそられる本が。せっかく行って時間かけて見たのだからやはりせめて1冊は手に入れたい。中を眺めて、うん、面白そう。ということで買いました。

もう何年も前、私にしたら危機感を覚えるほどモチベーションが低下していた時があって、どうしようもなくて何の目的もなく本屋さんに行って、ぼんやり本棚を眺めていて、目が留まった本を手に取りました。「モーツァルトが求め続けた「脳内物質」」というちょっと怪しげなタイトルの本です。それを見つけた段階ですでに私の中で低下していたモチベーションが上がりはじめました(まだ読んでないのに、なんで?)。そして読んでみて、まあ内容はなんともですが、とにかくその本を見つけたことが1つの転機となりました。なぜかはよくわかりません(笑)。本の中身はあまり覚えてないのですが(笑)、そういういきさつのある本なのでタイトルは覚えています。
私は決して読書家ではなく、はやってたり、皆が面白いと言ってても、実際読み始めて興味持てなかったらそれ以上は読めません。でも、本は時として大小さまざまな気づきを与えてくれたり、発想の転換のきっかけとなります。今回買った本からもきっと何かを得られるのではと期待します。

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2016年08月09日

地域固有の音楽と、広く共有する音楽について

7月、京都ではどこへ行っても祇園囃子がスピーカーから流れている感じでした。近くのスーパーでも、四条通りでも、京都駅でも。最初は、「ああ祇園祭やなあ」と思うのですが、そのうち、くどい!(笑)と思えてくる。そして、何より祇園囃子は、祭りの時ライブで聴くものだと思います。祭りのムードが高まるいいものです。
それでも、もし京都の人間が、京都から離れて暮らしていて、例えスピーカーからこの音楽を聴いたとしたら、懐かしく思うかもしれません。それは、音によって情景がよみがえってくるからでしょう。日本という国の、さらにローカルな場所で共有されている音楽。そういったものは、日本のその他の地域や、外国の様々な地域などすごくたくさんあると思います。でも、逆に言うと、文化的背景や思い出などを共有してない人が、例えば祇園囃子を聴いてしみじみするかといえば、それはないのではと思います。ドビュッシーがインドネシアのガムランを聴いて衝撃を受けたというエピソードがありますが、それは作曲家として触発されたということでしょう。

世界中にある、民族音楽はその地域の人たちや、また研究材料として価値あるものだと思います。地域の音楽は人々の心ををつなぎとめる役割もあるかもしれません。ただ、民族や地域を越えて共有するにはやはり音楽以外の部分を含めて共有してないと難しいんだろうなと感じます。

これと対照的だなと思うのは、西洋クラシック音楽をベースとした音楽です。クラシック、ジャズ、ロック、ポップスなど私たちが普段耳にする音楽のほとんどは、西洋クラシック音楽が簡素化されたり、変化したもので、平均律で構成され、コードをつけたり、移調したりすることができる。これは、民族音楽の複雑な音律(すべてがそうか知りませんが)と比べればシンプルですね。またクラシックの和声も平均律の前はもっと、響きを重視した色々な音律があった。平均律で扱いやすくなった音楽の何よりのメリットは、共有しやすく
なったことではないでしょうか? 結果的にみれば、それは文化的、民族的背景などを共有してなくてもです。上にあげたような音楽ジャンルは多くの国々で愛されていますよね。

5月にスイスの友人が遊びに来た時に、たまたま80年代の洋楽がかかっているお店に連れていったら、大喜び。私たちにとっても懐かしい曲ばかり。彼女が帰国する際、関空に送っていく車の中で一緒にカントリーロードを歌いました(彼女は感極まってました)。外国人の音楽の先生と、クラシックの色々な曲について語った時も、おもしろかった。私たちはまったく別の環境でそれらの音楽に感動している経験を持っているのだから。

オリヴェエ・アランの『和声の歴史』に次のように書かれています。
「音空間を移動しやすくするように、伝統的なピュタゴラスやアリストクセノスの音程が平均律によって多少変更されても、耳が受け入れるようになる。同じ和音ならばどんなに高さを移しても和音として変化しないようにするためには、まず音列をこのように改める必要があったのだ。もちろん、このように変えたために、いくつかの特徴のある表現、たとえば、ある旋法に独特の「エトス」(特有の表現)とか、平均律採用前にはおのおのの調性がもっていた独特の色彩とかいうようなものを聞けなくなったことは事実である。
しかし、失ったものを惜しむあまり、得たものを過少評価してはならない。歴史的発展には、従うまいとしてもむだであろう」
「和声の歴史を理解することは、ヨーロッパで聴感覚が経てきたさまざまな発展段階を再確認することである。これは音の「語法」の相対性を認めることではあるが、同時に、耳が持つ無限の適応能力を知ることにもなる」

平均律の音楽が主流となったということは、響きの純粋な美しさの追求よりも、耳は皆で楽しむことを優先したということかもしれません。

地域固有の音楽と、世界中で共有できる可能性のある音楽、どちらがいいかという話ではなく、目的によって違う形であり続けているのだなと思うのです。


posted by yoko at 00:17| 京都 ☀| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする