2016年08月09日

地域固有の音楽と、広く共有する音楽について

7月、京都ではどこへ行っても祇園囃子がスピーカーから流れている感じでした。近くのスーパーでも、四条通りでも、京都駅でも。最初は、「ああ祇園祭やなあ」と思うのですが、そのうち、くどい!(笑)と思えてくる。そして、何より祇園囃子は、祭りの時ライブで聴くものだと思います。祭りのムードが高まるいいものです。
それでも、もし京都の人間が、京都から離れて暮らしていて、例えスピーカーからこの音楽を聴いたとしたら、懐かしく思うかもしれません。それは、音によって情景がよみがえってくるからでしょう。日本という国の、さらにローカルな場所で共有されている音楽。そういったものは、日本のその他の地域や、外国の様々な地域などすごくたくさんあると思います。でも、逆に言うと、文化的背景や思い出などを共有してない人が、例えば祇園囃子を聴いてしみじみするかといえば、それはないのではと思います。ドビュッシーがインドネシアのガムランを聴いて衝撃を受けたというエピソードがありますが、それは作曲家として触発されたということでしょう。

世界中にある、民族音楽はその地域の人たちや、また研究材料として価値あるものだと思います。地域の音楽は人々の心ををつなぎとめる役割もあるかもしれません。ただ、民族や地域を越えて共有するにはやはり音楽以外の部分を含めて共有してないと難しいんだろうなと感じます。

これと対照的だなと思うのは、西洋クラシック音楽をベースとした音楽です。クラシック、ジャズ、ロック、ポップスなど私たちが普段耳にする音楽のほとんどは、西洋クラシック音楽が簡素化されたり、変化したもので、平均律で構成され、コードをつけたり、移調したりすることができる。これは、民族音楽の複雑な音律(すべてがそうか知りませんが)と比べればシンプルですね。またクラシックの和声も平均律の前はもっと、響きを重視した色々な音律があった。平均律で扱いやすくなった音楽の何よりのメリットは、共有しやすく
なったことではないでしょうか? 結果的にみれば、それは文化的、民族的背景などを共有してなくてもです。上にあげたような音楽ジャンルは多くの国々で愛されていますよね。

5月にスイスの友人が遊びに来た時に、たまたま80年代の洋楽がかかっているお店に連れていったら、大喜び。私たちにとっても懐かしい曲ばかり。彼女が帰国する際、関空に送っていく車の中で一緒にカントリーロードを歌いました(彼女は感極まってました)。外国人の音楽の先生と、クラシックの色々な曲について語った時も、おもしろかった。私たちはまったく別の環境でそれらの音楽に感動している経験を持っているのだから。

オリヴェエ・アランの『和声の歴史』に次のように書かれています。
「音空間を移動しやすくするように、伝統的なピュタゴラスやアリストクセノスの音程が平均律によって多少変更されても、耳が受け入れるようになる。同じ和音ならばどんなに高さを移しても和音として変化しないようにするためには、まず音列をこのように改める必要があったのだ。もちろん、このように変えたために、いくつかの特徴のある表現、たとえば、ある旋法に独特の「エトス」(特有の表現)とか、平均律採用前にはおのおのの調性がもっていた独特の色彩とかいうようなものを聞けなくなったことは事実である。
しかし、失ったものを惜しむあまり、得たものを過少評価してはならない。歴史的発展には、従うまいとしてもむだであろう」
「和声の歴史を理解することは、ヨーロッパで聴感覚が経てきたさまざまな発展段階を再確認することである。これは音の「語法」の相対性を認めることではあるが、同時に、耳が持つ無限の適応能力を知ることにもなる」

平均律の音楽が主流となったということは、響きの純粋な美しさの追求よりも、耳は皆で楽しむことを優先したということかもしれません。

地域固有の音楽と、世界中で共有できる可能性のある音楽、どちらがいいかという話ではなく、目的によって違う形であり続けているのだなと思うのです。


posted by yoko at 00:17| 京都 ☀| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする