2016年12月29日

音と心理の関係

今読んでいる『絶対音感神話』(宮崎謙一著/DOJIN SENSHO)の中でとても気になることがあったので、引用します。
「音響としての音の物理的性質と、その音を聞いた時に私たちが知覚する音の心理的性質は対応関係にあるが、同じものではない。(中略)音の聞こえの感覚は、物理的な音が、耳から脳に至るまでの聴覚系で分析・処理されることによってつくり出される主観的経験である。」(中略)「ピッチやラウドネス、音色などは、音を聞く人が感じる感覚的性質(心理的性質)であるため、測定器を使って測るわけににはいかない。こうした音の聞こえの性質を知るには、実際に音を人に聞いてもらう聴覚実験を中心とした心理学的研究を行うしかない。」

要は、音は物理現象(振動)だけど、どう感じるかは聞く人の頭の中で起こること(主観)によるから、それぞれに違う。音をどう感じるかは心理学の領域になるということですね。これは少し、はっとしました。

ここでは、単体の音についての話だと思いますが、音楽ならなおさら、心理との関係は深いでしょう。



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2016年12月24日

バザールカフェ京都で音楽

今日はパルヨン(外国人女性の会)の忘年会に行ってきました。この会は日本に住む外国人女性たちとその人たちをサポートしたいと思う日本人の会です。
「パルヨン」はフィンランド語で「たくさん」という意味だそうです。「たくさん」の交流の場で友達を「たくさん」つくり、情報を「たくさん」もらうことができるように名づけられたそうです。
パルヨンのメイン活動は外国人女性のための何でもしゃべれる会「プフー」です。「プフー」はフィンランド語で「ざっくばらんにしゃべれる」という意味だそうです。
この会に最初に参加する時から、機会があれば皆さんで歌をうたったりしませんか?という提案をしていました。外国の人と日本人が音楽を通して交流できることは素敵だなという思いがありました。
そして今回、バザールカフェ京都での忘年会でそれがかないました。ここにはピアノがあるので、ここで音楽をやりましょうと言っていただきました。

パーティーは持ち寄り形式で、それぞれ参加者が料理したものやデザートを持ってくるというものです。参加者は20名以上。たくさんの食べ物でそれぞれのテーブルはいっぱいになりました。みんなで食べたり、飲んだり、おしゃべりしたりしてしばらくたって、そして歌いましょうかということになりました。
他の人の演奏などもあり、3曲だけでしたが、それでも皆さんしっかり声を出して歌ってくださいました。私はピアノの演奏を静かに聴いていただくこともうれしいですが、歌ってもらって一緒に楽しむ時にも喜びを感じます。
特に今日は、国籍や民族を超えて一緒に音楽を楽しめたことが何よりです。多分、今後もまたこのような機会があると思ってます。きっと。


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2016年12月20日

「遊び」は大切

前回の記事で取り上げた『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)はまだ読んでいる途中ですが、「遊びのこころ」という章があります。この章の最初に、カール・ユング(スイスの精神科医、心理学者)の言葉が紹介されています。

「新しいものの創造は、知性によって達成されるものではない。内面の必要性から、直感的におこなわれる遊び(プレイ)によって達成される。この創造的思考は、その愛する対象との戯れである。」

ふんふん、確かに毎日音楽と戯れているよ、とそこは実感。

そして、さらにこの章から引用します。
「遊ぶことは、なんであれ私たちを制限から解放し、私たちの行動の領域を広げます。私たちの遊びは反応の豊かさと適応の柔軟さを育みます。これは遊びの進化価値であり、遊びは私たちを柔軟にするのです。現実を再解釈し、新しさをもたらすことによって、私たちは硬直にならずに済みます。遊びは私たちの能力やアイデンティティを再編成し、いままでになりやり方でそれを使えるようにします。」

「遊びは自由な探究精神であり、それ自体、純粋な喜びのための行為と存在です。」
(引用ここまで)

「遊び」と聞いて思い浮かべることは人によって違うかもしれません。「遊びが大事」という考え方は、なんだか漠然としていてわかりにくいかもしれません。でも、私はとても納得できるし、自分が思っていた以上に「遊び」は大切なんだと認識を新たにしています。

「遊び」は決して子どもだけのものではなく、「自由な精神での創造の実践」を意味している思います。創造というのは芸術や何かを作るということだけではなく、自分の生き方そのものにあてはまるのだと思います。自分の生き方は自分で造っていく。
「遊び」の大切さが理解できれば、子育ても、自分の生き方に対しても少し見方が変わるかもしれませんね。
私は、よし、もっと自信を持って遊ぼう(笑)と勇気づけられています。

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2016年12月14日

ブレイクスルーは続くよどこまでも

『フリープレイ―人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(スティーブン・ナハマノヴィッチ著/フィルムアート社)という本をツイッターで知って、おもしろそうなので図書館で借りました。
まだ読み始めて最初の方ですが、何度も読み返す箇所(そこに書いてあることが気になって)の連続です。引用したい箇所満載ですが(笑)、自分が普段感じていることと重なることのひとつについて書こうと思います。
「創造的な生き方において見出すものは、際限のない仮のブレイクスルーの連続に過ぎないのです。つまりこの旅には終点はないのです。なぜならこれは、自分の魂に向かう旅なのですから。」
私は時々、ああ、ようやくこのことに気づいた、開眼した、スタート地点に立ったと思いますが、しばらくしてまた別のことに、ようやく気づいた、開眼した、スタート地点に立ったと思います。そういう風に思うことの連続という感じです。引用の部分を読んで、そうか仮のブレイクスルー(壁を突破したと思ったら、また別の壁があった💦?)を繰り返しているのかと思いました。でもそのたびに少しずつは前進していると思ってるんですが。
著者は、禅の言葉にとても魅かれるということです。それは禅がブレイクスルーの体験を深く見抜いているからということです。
読み進めるのが楽しみです。

さて、12日、13日、14日とそれぞれ別の場所であった親子のクリスマスイベントは終わりました。3日間ともいつもの児童館と保育所のスタッフの方たちと一緒にクリスマスの音楽を中心に、様々なプログラムを行いました。私のソロの演奏もそれぞれの場所で行い、毎回何人かの小さなお子さんとお母さんが近くまで来て聴いたりしてくれて、やりがいがありました。1、2歳の子でも、ピアノにとても興味を示す子がいます。はいはいして足元まで来る子がいたり(かわいい!)、鍵盤を触ろうとする子もいますが、何があっても弾き続けます(笑)。毎月児童館で、同じようなことを感じていますが、この3日間はなかなか密度が高かった。クリスマスシーズンは音楽へのニーズが高いですね。

毎日家でピアノに向かっている時は自分の魂に向かう旅(ちょっと大げさ?)を続け、そして外では現場で喜んでいただくことを大切にしたいと思っています。


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2016年12月10日

どうして涙が出る?

音楽を聴いて涙が出ることがあるのはなぜか? ずっと前からわからないと思っていることです。さっき、ふとそのことについてある考えが浮かびました。
小鳥のさえずりや、水のせせらぎなどを聞いて、きれいな音だなあと思っても涙までは出ません(私は)。もし出るとすれば、その音から何かを連想して、別の理由によってということになる気がします。
自然の音は、人間に聞いてもらおうという意思を持って音をだしているわけではなく、私たちは受動的に一方的にそれを受け止めて、美しいと感じる。
音楽は、人間の意志によって構成されたある秩序をもった音の集まり。そこに、伝えよう、感動してもらおうという意思が強くあればあるほど、人の心に訴えかけてくるのではないか?
音楽を作る・発信する側と受け取る側の双方向のコミュニケーションがあるからこそ、感情が生まれるのでは?
この考えは今までの中で、一番説得力(自分に対する)がある感じがします。
初めて第九を聴いた時、合唱のところでだいぶやばいと思うほど心揺さぶられた時、ベートーヴェンの強烈さを実感しました。すさまじい意志の持ち主だったんではないでしょうか?
そう言いつつ、例えば弦楽器の音は、コンサートが始まる前に舞台上で音を調整しているのを聞いて、うるうるしてしまうことがあり、それはなぜか全然わからない。まさに琴線に触れる音?

だいぶ前にブログで書いた、ストラヴィンスキーの『音楽の詩学』(未來社)からの引用のことを思い出しました。記事はこちら「自然と芸術」
「私は、それ自体として心地よく、耳を愛撫し、完全たりうる喜びを私たちにもたらす基礎的な音響、生の状態の音楽素材の存在を認めます。けれども、そうした受動的な快感の彼方に、私たちは、秩序づけ、活気づけ、創造する精神の操作に私たちを積極的に関与させる音楽を発見しに赴くのです。
というのも、あらゆる創造の根源には、地上の糧に対する渇望ではない渇望が見出せるからです。そのようなわけで、自然のたまものに、策略―それこそが、芸術(アート)(技術)の一般的な意義です―の恩恵が加わります。」

「地上の糧に対する渇望ではない渇望」というのが、人間の意志(作りたい、伝えたい)なんだろうと思います。

以上、今晩の思いつきについて書きました✌。



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2016年12月08日

クリスマスイベントを控えて

来週からクリスマスイベントなど、演奏の機会が何度かあります。それに向け、クリスマスの曲を編曲したり、その他の選曲したりしていますが、クラシックの曲も入れようかなと思っています。
作曲する前はクラシックばかりでしたが(だいたいやさしい雰囲気の曲)、少しずつ自分の作曲、編曲したものの割合が増えてきて、最近はクラシックはほとんど人前で弾かなくなっていました。
なぜ、今回またクラシックを弾いてみる気になったかといえば、自分の曲は最近特にBGM向けの傾向があり(お店の演奏に合わせ)、クリスマスのイベントではもうちょっと華やかなものがいいかなと思って。
と言ってももう日があまりないので、自分の曲がメインにはなりますが、それもクリスマスソングの編曲を含めBGM向けじゃないのをやります。

どのクラシックの作品にしようかと、久々の曲を色々弾いてみるとなかなか新鮮でした。というのも、しばらく弾いてなかった間に多少は私も成長したのでしょう、新たな発見みたいなものがあって楽しいのです。
以前はどちらかというと、あまり知られていないきれいな曲を紹介するつもりで選曲していましたが(と言ってもモーツァルトやハイドンのソナタなども弾いてました)、やはり一般の方々は知っている曲の方が楽しいのじゃないかなと思ったりもするので(色々な人の演奏に対するリアクションを自分なりに分析しています)、しばらくは広く親しまれているメジャーな小品をレパートリーにするつもりで練習してみようかなとも思っています。

前回書いた『インプロヴィゼーション』という本では、クラシックはインプロヴィゼーションが生まれにくいジャンルということが書かれていました。でも、クラシックは音楽資源として無限と思えるバリエーションがあり、その気になればインプロヴィゼーションの勉強のために役立つだろうし、作曲にはもちろんのことだと思います。ここ何か月か、毎日弾くクラシックはほとんどバッハだけくらいになっていましたが、これを機にまた、学びと、いざという時に応えられるようクラシックの作品にもまた取り組んでいこうと思ってます。

今日はまた、同志社の近くにあるバザールカフェで忘年会の打ち合わせをしてピアノを少し弾いてきました。この時は伴奏がメインになりますが、一緒に選曲をしていてやはり楽しい曲が望まれることを再認識。曲作りは自分の可能性を試すために続けていこうと思いますが(お店の方はこれで)、何よりも望まれる音楽を提供したい(自分が嫌な音楽は無理ですが)、そして一緒に音楽の楽しみを共有したいというのが私の望みだなあと今日も改めて思いました。

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2016年11月27日

もっと自由に

少し前、ジャズのことを調べていた時と前後して、『インプロヴィゼーション』(デレク・ベイリー著/工作舎)という本を読みました。この本は今も本屋さんにありますが、うちにあるのは発行1981年となっています。結婚当初から家にありましたが、何度か読もうとしてあまり興味を持てずにいた本です。でも、今は作曲や編曲してそれを演奏するという中で、クラシックを弾くのとは違う音楽に対する取り組み方を模索していて、この本も興味をもって読めました。

インプロヴィゼーションとは「即興」のことで、この本は、現代音楽、インド音楽、フラメンコ、ジャズ、ロック、教会オルガン、バロック、フリーというジャンル別に、その分野の音楽家への聞き取りと著者の考察がなされています。
まず前提として、デレク・ベイリーは即興には二つの主要な形態があると述べています。
「イディオマティック(イディオムに根ざした)」と「非イディオマティック(イディオムに根ざさない)」の二つです。
イディオムとは英語で慣用語、熟語、語法といった意味で、つまり、そのジャンル内で通用する言葉のようなものではないでしょうか。そういう意味ではフリー以外は、だいたいイディオマティックに入るのではと読んで思いました。
ここでは即興におけるイディオムの役割を「主にあるイディオム―ジャズとかフラメンコとかバロック―の表現方法に結びつき、そのイディオムからアイデンティティーや動機づけをえている」と書いています。

なので、ただ感性で、その場でひらめいて、インスピレーションを得て突然演奏するというよりも、その分野のイディオムを蓄積した上で、即興演奏ができるようにトレーニングをすることになるということですね。先日の法然院のバロックコンサートでもそんな説明がありました。
先日、ジャズのパターンやフレーズを覚えるつもりがなくて、すぐにレッスンをやめてしまいましたが、私はオリジナルに取り組んでいるので、ジャズのイディオムを覚えても仕方ないということです。

もちろん、即興演奏をするつもりもないのですが(無理だし)、自分の曲でもたびたび演奏することになると、その都度新しい曲を用意できたらいいのですが、なかなか追いつかず、演奏する自分自身がもっと変化がほしいなというところにいたっています。それで、演奏の際何か工夫が必要だなと思い始めたのが、即興に興味をもったきっかけです。
以前、「自由について」という記事を書きましたが、その時フランス人に言われた、自分の曲でも毎回同じように弾くのなら自由じゃないのじゃないの? という意見について、その時はそんなことはないと思っていたけど、ようやくそうとも言えることもあるかもと思うようになりました。
それでもやはり、即興というのは、特に何かのイディオムを持ってるとか、そういうことが得意でなければ難しく、私のような者の場合、ちゃんとあらかじめ検討を加えた作曲や編曲の方がまだましなものができるはず。家では簡単な即興は試してみてるし、児童館ならやさしいやさしい即興的なことはやりますが、ちゃんとした演奏として即興ができるとは、今のところとても思えない。

それで、昨日のいるか喫茶バーでの演奏は、あらかじめ自分の曲を何曲か編曲してみました。これなら短期間でできました。自分の曲なのでもっと自由な発想で試してみればいいと思って。

『インプロヴィゼーション』の中のバロックの章に、次のようなことが書かれています。
「当時は作曲家自身が自分の作品を演奏するものでしたし、ときには時間がぜんぜんないということもあって、譜面にすべての音を書くというようなことはしませんでした。作曲家は、ここでなにか特定のことをしようというところを思い出すために、音符を書きとめておいただけなのです」

そんな、不完全な楽譜では心もとないので(自信がないので)、その代わりに編曲を済ませて譜面にして弾いたわけです。
さて、今後どんな風に展開していくか? まだまだ試行錯誤は続きます。

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2016年11月25日

ポール・サイモンについて少し

ポール・サイモンについて何かを語るほど何も彼のことは知りませんが、最近興味を持つようになった経緯が自分でもおもしろいなと思っています。まあ、こういうことはよくありますが。
クラシックのように楽譜ありきでない音楽との向き合い方を考えるために、少し前ジャズを勉強しようとしたことはブログにも書きましたが、それを知ったご近所のジャズ好きな方がおすすめのトリオなどをいくつか教えてくださってその中に、ヨーロピアン・ジャズ・トリオがありました。
彼らは皆が知っているクラシックやポピュラー、民謡などをモチーフにした曲をたくさん演奏しています。その中に「スカボロフェア」があります(私が聴いたのはもう10年以上前の演奏ですが、とても素敵です)。

スカボロフェア(ヨーロピアン・ジャズ・トリオ)

スカボロフェアは誰もがどこかで聴いたことのあるなじみのある曲だと思いますが、いい曲だなと改めて思って、元の曲を聴いてみようと思いました。といっても、民謡なのでそれをアレンジして昔歌っていたサイモン&ガーファンクルの動画を観ました。スカボロフェアといえば彼らの曲と思ってたくらい。
よく聴いてみると、アレンジがとても凝っている。ポリフォニックなサウンド。声と楽器(クラヴィコードかチェンバロのような音も聴こえます)が溶け合うように重なって、何度聞いても感動できるような味わい深さです。

スカボロフェア(サイモン&ガーファンクル)

少し前に、ある人の記事でポール・サイモンがバッハの影響を受けていることを知りました。きっと、スカボロフェアのアレンジはポールに違いない!? そのあたりからポール・サイモンへの興味は強くなっていきました。
それで、検索してみると、現在70代半ばでまだまだ現役で今年出したアルバムが全米チャート3位、全英チャート1位というから驚きです。その音楽は、「刺激的で、若い!」。音楽に年齢は関係ないと、勇気をもらいました(笑)。

『ストレンジャー・トゥ・ストレンジャー』より「Wristband」

こっちは「Wristband」ライブ

リズムがかっこいい!

クラシックを弾くことは学びと楽しみのために私にとって今も重要ですが(といっても最近はオリジナルに時間がいるので毎日弾くのはほとんどバッハくらいですが)、人前の演奏のための作曲・編曲のためにはもっとジャンルを超えて、ジャンルにとらわれずに音楽に向き合いたいと思っています(ジャズのフレーズやパターンをおぼえることは私にとってはかえってジャンルにとらわれることになると判断しました)。
そういう意味で、クラシックを含む色々な音楽から影響を受けオリジナルを生み出している音楽家には興味があります。ヨーロピアン・ジャズ・トリオのマーク・ヴァン・ローンもクラシックとジャズを同時に学んできたピアニストです。

素晴らしい才能に接すると、自分は何をやってるんだろう?と、ふと我に返ったりすることはびたびですが(笑)、では「やめる?」と自問して、「やめません」というだけです。自分がどこまで行けるか?それだけです。


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実はうちにこんなポール・サイモンのアルバムがありました。
1990年の。とてもアフリカンです。


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2016年11月15日

バレンボイムの話を聞いて

たまたまツイッターでダニエル・バレンボイムの音楽レクチャーのような動画を見つけました。10分弱の動画ですが、とてもいいお話が聞けました。
Barenboim talks about music
その中で特に印象に残ったことです。
バレンボイムが14歳の時に、ホロヴィッツの前でピアノを弾いた時のことです(バレンボイムは神童だったからすでに普通の14歳とは全然違ったでしょうね)。その時にホロヴィッツがバレンボイムに言った言葉が忘れられないと言います。
「君は常に意思(will)をもちなさい」
それは「何かを表現しようとする意思」のことということです。すばらしいアドバイスですね。

私も「どのような音楽をどのように表現していくのか?」この大きなテーマに向き合いながら、その時そうするのが一番と思ったことを、意思を持って取り組んでいます。

ジャズピアノのレッスンは結局1ヶ月未満でやめました。知らなかったわけではないのですが、やはりジャズはパターンを覚えなければいけない。ジャズピアノを弾くのが目的ではないから、パターンを覚えることは私には意味がない(そもそも興味がない)。
でも、気づいたことは色々あります。それこそが、頭で考えてるだけではわからなかった、やってみてわかったこと。やはり思ったことを実行してよかったと思っています。

どんな音楽であろうと、私は、「歌心」が感じられるものに惹かれるので、そういう音楽にインスパイアされながら、「何かを表現しようとする意思」を持ってこのまま音楽に向き合い続けるつもりです。

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2016年10月29日

リズムで軽やかに

今日はいるか喫茶バーでBGM演奏をしてきました。
少し前ブログで書きましたが、創作の幅を広げることを主な目的としてジャズピアノの勉強もしているので、今はインプットに時間かけてます。それで、今回は編曲ものを2曲増やしただけになりました。

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先週から、ジャズピアニストの岩瀬章光さんの所にレッスンに行きはじめました。最初から、ジャズピアノを弾く目的というより、オリジナルのためですと告げていますが、変な顔もせず、私の程度をみながらレッスンをしてくださっています。1ヶ月、2ヶ月、いつまで続けるかはその時に判断します。月2回なんで、家でどれだけ取り組めるかによると思いますが。
レッスンでは先生がベースを弾いてくださいます。普通のスケールを弾いてるだけでも、ベースが入ると楽しくなる。改めてクラシックとジャズとの大きな違いのひとつはリズムだなと思います。

先日のバロックのコンサートでも、1曲だけ、打楽器が入ったり、ギターのボディを叩いたりしてリズムをとる曲がありました。すると、急にカジュアルな雰囲気になるんですね。少し厳かな雰囲気から、ポピュラーな感じに。初期バロック時代の音楽の自由さを感じさせる要素のひとつかもしれません。

というわけで、リズムというのはより音楽に軽やかさをもたらすものであると再認識し、そういう部分もピアノソロであってもオリジナルに生かせられないかと思っています。
ちなみに、この間のレッスンでは、リズムはいいとほめてくださいました。うれしい。ほめ育てに弱いです(笑)。


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2016年10月24日

お寺でバロック

日曜はパブロ・エスカンデさんと三橋桜子さんご夫妻からご案内いただいたコンサートに行ってきました。場所は京都市左京区の法然院。哲学の道の途中から東へ坂を上がって行った奥にあります。哲学の道へは時たま行くことがありますが、法然院は久しぶりです。山門がとても素敵。来月になれば、紅葉で人もたくさんでしょうが、夕方近くということもあってかそんなに多くはなかった。でもコンサートには多くの人が来られていました。

今回のコンサートは、初期バロックの作品ばかりで、お二人の他にバロックの演奏家が二人いっしょに演奏されました。チェンバロの他、バロックギター、テオルボ、コルネットなど初めて見たり聴いたりする楽器がありました。パブロさんがオランダから船で送ったという小さなパイプオルガンも。
お寺の本堂の真ん中にチェンバロがある光景はなかなか不思議な感じでした。他の部屋より天井が少し高く、端に向って少し丸みをもたせてあり、思っていたとおり、柔らかないい音がしていました。

今回演奏された初期バロックの作品は、作曲家も曲も知らないものばかり。でも、全体的に優しい音色、歌も含めた楽器の音の溶け合う美しさ、趣向をこらしたプログラム、知らない楽器への興味などからとても楽しめる内容でした。
近頃は、トークも充実しているとよりコンサートの満足度も高まる感じがしますが、今回も初期バロックの作品や楽器などについての説明がたくさんあって、おもしろかった。
バロック時代は即興演奏もさかんで、八分音符を三連符のように弾いていたということは本で読んだりしていました。そういう演奏も聴いたことあります。これは後のジャズのようですが、今回のお話でバロック時代の即興も何かインスピレーションを得て演奏するというよりも、たくさんのフレーズをストックしておいて演奏する時に引き出しからそれを取り出すというようなことを聞いて、そうか、ジャズもそうやって学習すると聞いたな、と思ったのでした。今回の演奏でも、即興演奏の部分があったようですが、もともとの曲を知らないので、どの部分がそうか、ちゃんとわかりませんでした。

休憩時間に、少しパブロさんと話せたので、最近ジャズを勉強しはじめたと言うと、すぐに何が言いたいかわかってくれたようでした。今日のコンサートとの接点。初期バロック作品はより自由な感じがする(クラシック音楽の中で)ということについて共感できました(夫も)。

コンサートの始めに、住職の法話みたいなのが少しあって、仏教は宗派が違ってもそれを認め合う寛容さがあり、それは大切なことであり、日本のお寺でヨーロッパの音楽が演奏されるのも意義深いことであるというようなことをおっしゃってました(おおざっぱな記憶ですが)。

お寺でバロックは、期待通り、いやそれ以上に素敵でした。

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2016年10月16日

聴こえない音楽

先月たまたまツイッターで『リッスン』という映画のことを知りました。公式サイトはこちら
サイトには『「聾者(ろう者)の音楽」を視覚的に表現したアート・ドキュメンタリー、無音の58分間。』という見出しがあります。とても気になって予告編を見て、衝撃を受けました。
それまで、音楽というのは耳で聴くもの、音を使って表現するものだと思っていたからです。でも、確かに彼らは全身を使って、音を使わず、音楽を表現していると感じました。
ぜひ観てみたいと思いましたが、京都での上映は元立誠小学校で、すでに終わっていました。

そして最近、『138億年の音楽史』(浦久俊彦著/講談社現代新書)という本を読んでいて、「これは!」と思う部分がありました。

古代ギリシャと聴こえない音楽
「古代ギリシャ時代の音楽観がわかる恰好の資料がある。五〜六世紀ローマの哲学者ボエティウスが著した『音楽論』である。ここに、古代ギリシャの音楽が三種の分類で示されている。「宇宙の音楽」、「人体の音楽」、「道具の音楽」である。
ところで、この三種の分類は、ぼくたちの常識的な音楽とはまったくかけ離れている。このなかでいまでも音楽として通用するのは、第三の「道具の音楽」だけだ。この「道具」には、楽器だけでなく人の声も含まれるというから、何か「音の出るモノ」を使う音楽は、すべて道具の音楽となる。ほかのふたつ、宇宙の音楽と人体の音楽は、メロディーがあって演奏できるような音楽ではない。つまり聴こえる音楽ではないのだ。
だが、ギリシャ人たちにとっては、どちらも音楽であることに変わりはなかった。」

そして、ボエティウスは「人体」と「宇宙」の音楽について、どちらも「結合」「調和」など、何かと何かを結びつけること(ハルモニア=ハーモニー)であると強調しているということ。

ハーモニーという英語は、日本でも普通に使われていて、音楽をイメージする言葉だと思いますが、音楽に限らず「調和」を意味する言葉。音楽というのは聴こえても聴こえなくても「調和」のためにあるのだと思うと、改めて感動してしまいます。

これを読んで、「リッスン」で彼らが表現しているのは、やはり「音楽」なのだなと思いました。



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2016年10月06日

「なんてことない」ことはないです!

村上春樹さんのエッセイ集『サラダ好きのライオン』の中の、「オペラ歌手のシャム猫」の中に、

「僕は昔から音楽が好きで、それなしではうまく生きていけないくらいだけど、でもそのぶん耳障りな音楽には耐えられない体質になってしまっているところがある。
その昔、用事があって原宿のファッション・ビル「ラフォーレ」に行った。フロアを歩いていたら、右手の店からホール&オーツの『アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット』が聞こえてきて、左手の店からスティービー・ワンダーの『パートタイム・ラヴァー』が聞こえてきて、それがちょうど僕の耳あたりでがつんともろにぶつかりあった。それぞれの歌は悪くないんだけど、二つが等格で混じり合うと、不快な騒音以外の何ものでもない。神経にヤスリをかけられているみたいで、頭がぶち切れそうになり、それがトラウマになって(ほんとに)、以来原宿地区にはろくに足を踏み入れていない。
今の渋谷センター街近辺でも、おおむね同じような事態が―音楽の傾向はもちろんかなり変化したけど―日常的に生じている。とくにあの巨大テレビ画面の音声が街路上で混じり合っている様は、ほとんど拷問に近い。でも見たところ、まわりにはぶち切れている人はいないみたいだ。とくになんてことないんでしょうかね?」

というのがあって、ここまで読んで、「いえ、なんてことないことはないです!」と言いたくなりました。

私もけっこう音楽や大音量のスピーカーの声などが気になる方で、どうしてこんなに音を雑に扱うんだろう、と常々思っている(あきらめてるけど)からです。例えばスーパーなどで、建物全体に聞こえるBGMが流れているのに、魚屋の前では別の音楽がながれていたり(だから両方聞こえている)、途中で音楽がぶちっと切れて、お買い得商品の紹介がスピーカーから流れだしたり。

私も、色々な音が混ざってたりしてもみんな平気なんかな? と思っていたことがあるので、そうでない人を見つけた(村上さん!)と、ちょっとうれしかった。


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2016年09月29日

光源氏が語る「物語論」

以前もブログに書いた『日本の芸術論』(安田章生著)をちびちびと読み進めています。実は、この本で一番力の入っている「詩歌論」を読んだ後、しばらく読んでなかったんです。といのは、あまりに芸術を追求して高めることばかりが書かれていて(松尾芭蕉についてたくさん書かれています)、少しひいてしまったんです。
すべてでないかもしれないけど、その対象が無限と思われる「自然」の美。それがすばらしいことには違いないと思いますが、そこから美をすくい取って、「詩」という芸術に仕上げることにに全生命をかけるくらいの厳しさというか、その精神性に、ちょっとそこまでは…と感じてしまって。そういう印象を持ってしまったあたりからは、読み方もちょっといい加減になったかもしれません。すばらしいこともたくさん書いてありますが。

で、しばらくしてから、次の「物語論」というのを読んでみたら、少し興味深いことが書いてあって、ちょっと書いてみようかと思いました。
「物語論」も「音楽論」よりはましなものの、「詩歌論」に比べれば、書かれたものが少ないようです。その中で著者にとっての物語論の中で、最高のものとして『源氏物語』の「螢」の巻のなかに見える物語論をあげています。源氏物語って、昔々、高校生の時古典でずっと読んでいたけど、ほとんど覚えてないというか、そもそもあまり頭に入ってない(笑)。

紫式部が、『源氏物語』の中で自分の物語論を光源氏に語らせているということです。
著者が要約したものは、こうです。

一、物語というものには、実際なかったことがかかれており、そういう点でそのままには信ずべきでないものが含まれている。

二、しかし、それは、さびしい心を慰めてくれるものであり、虚構のなかに人間性の真実をきらめかしているものである。

三、それゆえ、それは、史実を越えて、人間性を描き出すものであり、そういう意味で、史書以上に人間の真実に迫り触れているものである。

四、そういう物語というものは、ある特定の事実をそのままでないにせよ、この世に生きている人間の有様を見聞きするにつけ、書かずにはおられなくなって書いたものである。それはやはり現実に深く根ざして書かれたもので、全く嘘だとはいい切れないものである。

人をひきつける物語とは、その中に受け取る側が共感できる真実があるからだと、実感することはよくあります。

「詩歌論」がどちらかというと、自然に向き合っているのに対し、「物語論」は人に向き合っているという違いが感じられます。この違いは興味深い。

この本は、そもそも自分にとっての興味のテーマで、この本を選んだきっかけ、「私に影響を与えている日本・西洋の芸術についての考え方」にも影響を及ぼしている感じがしています。


posted by yoko at 00:23| 京都 ☁| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

曲を追加しました

昨日、スタジオで録音したオリジナル曲をアップしました。曲に合う画像がなかなか決まらず、手間取りました。

The night stars fall  星が落ちる夜



Still in a dream  まだ夢の中 



Good timing



White night  眠れない夜



To tomorrow  明日へ



I will tell you  君につたえよう



よかったらお聴き下さい。


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