2016年09月16日

心と心が

またまた「心」ですが……。最近の私のキーワードかも。

何度か書いていますが、私は音楽や映画などで泣くことは多いですが、絵を見て涙が出てきたのは今まで2回だけです(以前の「ゆ〜るりぶろぐ」などでも書いていましたが)。もう何年も前ですが、1回目はいわさきちひろが子どもの絵を描いたものばかりを集めた展覧会で。
涙が出るのは理屈じゃなく、ストレートに感情に訴えかけてくる何かによってだと思いますが、それまで絵を見てそういう気持ちになったことがなかったので、少し驚いたくらいです。いわさきちひろの絵は写実的でないのに、ものすごくリアルだと感じるのは(私は)、そもそも絵では描ききれない子どものかわいらしさをこちらの想像力に訴えかけてふくらませる力があるからじゃないかなと思ったりします。シンプルな線(でも、ものすごく子どもを知り尽くして表していると感じられる)に子どもへの愛情、思いが込められていることが伝わってくる気がしたのです。

そして、2回目は3年ほど前(?)「印象派展」で見たいくつかの絵です。誰の絵だったか名前は覚えてないのですが、風景画ばかりです。なぜ風景画で涙が出てくるのか、不思議に思いました。理屈で考えてもわからない。ただ、その他の絵も含め多くの絵から作者がそこで感じている感動のようなものが伝わってくる気がしました。私がもしその場へ行ったなら、そのような心情になるだろうと疑似体験しているような気がしたのです。実際、自然の美しい風景を前にしている時は、目だけでなく、風や光やにおいや温度や音や様々なものを全身で受け止めているわけですから、そのような感動を思い出させる力とはすごいものです。

前回のブログで、『古今集』の中にある記述を少しご紹介しました。
「すべて詩(広くいえば文学、芸術)というのは、まず作者の心に詩的(芸術的)感動が存在するのが原則であるから、……」

きっと見ている者の心をゆり動かす作品というのは、作者の感動によるものだろうなと思います。そして、それを表現する力は必要ですが。

絵に限らず、色々な作品に接してきて、最近特に思うのですが、私が求めているのは作品そのものというよりも、その奥にある「心」だなと。それを判断しているのは、理性ではなく、感情なのだなと。心が心に反応しているということでしょうか?

私がめざす表現というのは、やはりそのように聴いてくださる人たちの心に届くようなものです。




posted by yoko at 14:45| 京都 ☁| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月15日

「心」と「ことば」

またまた『日本の芸術論』(安田章生著/東京創元社)ですが、前回のブログでこの本では「詩歌論」に重きを置いていると書きました。実際、残っている文献が多いからで、そのことが日本の芸術論の中で、「詩歌」の分野が重要視されてきた表れだと思われます。
詩歌論の章には様々なことについて書かれていて興味深い事柄がたくさんあるのですが、その中からひとつ「心」と「ことば」について書いてある部分を少しピックアップしたいと思います。

「「心」と「ことば」との関係について、その出発点となっている考え方は、『古今集』の序に見られる、「心」を根本とする考え方である。」

中略

「すべて詩(広くいえば文学、芸術)というのは、まず作者の心に詩的(芸術的)感動が存在するのが原則であるから、……」

中略

「内容としての「心」と、表現としての「ことば」とを分けて考えるということは、便宜的なことであるといわねばならないのであるが、日本の詩歌論においては、両者にわけて考えられることが多く、その場合、内容としての心を尊重することが強い伝統となっているのである。」

『古今集』とは調べてみると、平安時代前期の書物。もうその頃に芸術論がすでに存在しているのですね。
「音楽論」にはそのようなことについて書かれたものが見つからなかったから、この本では「名人」について書かれた部分が紹介されていて、前の二つのブログでそのことについて書きました(後で気づいたんですが、タイトルは「芸術はご飯?」ではなく、「名人はご飯だ?」ですね。(笑))。

「まず作者の心に詩的(芸術的)感動が存在するのが原則」という部分を読んだ時、「それそれ」と思ったんですね。それは私がいつも思っていることで、普遍的なことなのだなと再認識した部分です。他にも「それそれ」と思える部分がたくさんあります。

詩も音楽も表現手段であり、核となるのは「感動する心」であるのだと思います。


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2016年09月11日

塩や野菜もでてきます

前回書いた『日本の芸術論』の中の「音楽論」について少し補足をしておきたいと思います。この本は多くの古い書物(ちゃんと確認できてませんが多分平安時代から江戸時代くらい)から引用文を用い、著者が古い言葉を読みやすく訳し、さらに、考察を加えるというような形をとっています。前回のブログで私が引用した文は、著者の考察文にあたり、さらに元になる文があります(ややこしいですが)。

音楽論の前置きとして、日本の古い音楽書というものは少なくないけれども、主として解説的なものか研究的なもので、芸術論的には見るべき点が乏しい、音楽の本質論にわたるような論は見いだすことができなかった、ということです。
その上で、平曲(『平家物語』を琵琶にあわせて語る音曲)における上手の等級を論じた文を引用されています(『西海余滴集』より)。その中の一部が昨日私が引用した文の元となっています。

該当する部分を含んだ著者が訳した部分はこうです。

「名(名人)というものは、節まわしも他の人と違ったところはなく、声もとくべつの声というものでもない。とりわけておもしろいとも聞こえないが、聞いていると、さすがに飽くことなく、いつ終わったとも覚えない。他の人の芸と比較すると、及ぶものはなくて、聴衆は再び聞きたいと願い、またという望みが起るのをいうのである。
たとえていうと、名人は飯のようなものである。味というほどの味もなく、とくにすぐれているというのではないけれども、食物のかしらである。
名人の次の位の上手というのは、塩のようなものである。いい塩を煮加えると、諸食の味がよくなる。ゆえに、過ぎても悪く、また足りなくても悪くて、そのよき程度を加減することがむつかしいのである。上手は、また、いってみれば、三月下旬や四月初めに、瓜や茄子を得たようなものである。最初は珍しいけれども、後にはそれほどでもなくなる。」

ご飯に加え、塩、野菜もでてきました(笑)。食べ物から芸術表現をイメージするのは難しい!(笑)。ユーモアは感じますが。

この本の中で「詩歌論」の方が、書物も充実し、詩を書くことに対する古い時代からの思い入れの強さが感じられます。内容も「音楽論」とは比べ物にならない。「詩歌論」を読めばおおむね日本人が大切にしてきた価値観、芸術観というものが理解できる気がします。他の分野はそれをベースにしていると思えるくらい。

現代人が親しんでいる西洋音楽をベースとした音楽に相当するものは、そもそも日本にはなかったし、昔の人が熱く語ってこなかったことからも、音楽というものにそれほど熱心でもなかったのだろうなと、思えます。
西洋芸術における音楽の重要性と比較すると、日本の場合は、「詩歌」に重きを置いてきたのでしょう。



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芸術は「ご飯」だ?

8月の下鴨納涼古本まつりで買った『日本の芸術論』(安田章生著/東京創元社)をちびちび読んでいますが(昔の言葉(引用文)が多くて読みづらい(-_-;))、「序」の部分に、かなりこの本の趣旨と思われる文章があります。

「日本の芸術論全般に通じる特色というようなものを考えるとき、何よりもまずあげるべきは、詩的なもの、余情、素直さ、自然であることを尊重する点が、たいへん強いということであろう。これらの点は、とりもなおさず日本の芸術全般に見られる特色でもある」

この時点で、この本が私が求めていることが書かれているであろう本であることが期待でき、買ってよかったと思いました。古い本の中には本当に貴重な本があると思います。

本の中に「音楽論」というのも出てきますが、「詩歌論」「演劇・戯曲論」などに比べるとかなり簡単で短いです。
私がなぜここにきて、日本の芸術(特に伝統的な)に興味を持ったかと言えば、自分が小さい頃からずっと西洋音楽をベースとした音楽に接してきていて、私の中にある音楽はほぼ西洋音楽でできていると思うのですが、でも和花や、日本の庭や、無垢の木や日本の美しいものは好きだし、まさに「詩的なもの、余情、素直さ、自然であること」が感じられる日本的な美意識というものも持っていると自覚していて、その両方が自分の中でどのように同居しているんだろうと、常々考えたりしているからです。

特に、曲を作り出してからだいぶたって、西洋音楽ベースからスタートした自分の音楽が、少しずつどこかで自分の中の和の感覚に影響を受けてるんじゃないかな?と思うこともあります。それは「雅楽」とかいう意味じゃないです(笑)。もっと抽象的な感じです。

西洋音楽は「自然であること」とは、だいぶ違って、もっと人間の「美しいものを作る」という意思をもって作られているように思います。それが西洋音楽の強さであり、民族を越えて人をひきつける魅力にもなっているのだと思います。
ちなみに、この本の「音楽論」の中に、次のような文があります。

「真にすぐれた芸術というものは、「飯」の味のように、平凡に似て、いつまでも飽くことのない性格を持っているものであるといえるであろう」

芸術は「ご飯」です!(笑) 確かに日本人はご飯が好きだし、自然だー! ちょっとガクッときましたが(笑)

毎日創作を続ける中、非常に異なった西洋と和の芸術の違いについて考え、感じています。


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2016年09月04日

画像の効果

先週の金曜日、大阪のスタジオで録音してきました。時間配分を誤って、時間が足りなくなったこともあり、結局今回録音したうちの3曲だけYoutubeやsound cloudなどにアップしました。
今回もそうですが、画像は今までもFree photo(無料で使える写真)を何度か使わせてもらってます。きれいな画像を見ながら聴くと、少しよく聴こえる気がします(笑)。
今回初めて、人物の写真を使わせてもらいました。人が入るとよりドラマチックな雰囲気になると自分では感じています(赤ちゃんかわいいし!)。


Josh Willink という方の写真です。

あとの二つ

Scenery of the faraway town(Piano solo)  遠い町の風景(ピアノソロ)


Recollection of the dream(Piano solo)  夢の回想(ピアノソロ)



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2016年08月29日

感動すること、表現すること

改めて言うまでもないのですが、私はピアノを使って音楽を表現することが好きです。それは一つの形として、自分の内面を表現していることになると思います。何かを表現するのは、能動的な行為で、受け身の行為としては(積極的にですが)、もちろん音楽を聴くこともそうですが、自然や絵画や建築や映画や本や様々な感動を与えてくれるものに接することになると思います。そこには垣根はありません。「自分がいいと思えるもの」という共通性があって、どの分野に属するかということはどちらでもいいです。
以前、自分に感動を与えてくれるものに接することは、自分の表現行為にどういう関係があるのだろうと少し考えました。その時気づいたのは、感動したら今度は自分が何かを表現したくなるということです。自分がいいと思えるものはたくさんあっても、音楽とその他の決定的な違いは、自分が行為者として表現したいと思えるのは音楽であって、絵を描きたいとか思わないわけです。そこに情熱の大きな差がある!
そういうわけで、これからも色々なものに感動し続け、その感動を表現の糧としていくだろうと思います。

8月に行った二つの美術館。

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何必館

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堂本印象美術館

何必館では村上華岳の絵が、堂本印象美術館では堂本印象の襖絵などが特によかったです(どっちも渋いな!)。シンプルな絵ほど、その線を選ぶセンスが感じられてすごいなと思います。


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2016年08月27日

今日の演奏

今日は「いるかショー」でした(うちの娘がそう言った(笑))、じゃなくて、「いるか喫茶バー」で1時間半BGM演奏してきました。
先月の演奏の後、よりBGMを意識して作った曲を6曲加えました。抑え目でもやはり自分としてはどこか抒情的というか、エモーショナルな感じを含みたいという気持ちがあって、そんな感じになっていると思っています。私が弾いてる1時間半の間、ずっといらっしゃったお客さんもおられたし、1人の方や友だち同士などがそこで過ごされる時間が少しでもいい雰囲気になればと思いつつ弾いています。
来月は24日(土)に演奏します。

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演奏後、紅茶を飲んでくつろいでいる。

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2016年08月14日

下鴨納涼古本まつり

下鴨納涼古本まつりに行ってきました。何年か前にも行きましたが、ちょうど今、何か本を読みたい気分だったからいいタイミングでした。
本が並ぶ糺の森は木陰がたくさんあって、小川もあるし、雰囲気的には涼しげですが今日はすごく暑かった! ずっと古本まつりのうちわをばたばたさせながら、少しずつ見ていきました。といってもすごい量で、本屋さんのようにジャンルごとに分類されているわけではないので(絵本とか、大型本とかぱっとみてわかるのもありますが)、適当にながめてなんとなく興味のありそうなものが並んでいるところで立ち止まって、気になるものはとりだしてめくってみるという感じ。大量に本があるからといって欲しい本がそう簡単に見つかるわけではなく(多分ジュンク堂の方が見つかる)、1時間ほどうろうろしてたでしょうか、暑いし、うちわで扇ぐのも疲れてくるし、だんだんうんざりしてきて「もういいわ」と夫に言った後、なんとなく見てたら以前も古本まつりで買ったことのある本屋さんがあって、もしかしたらと本棚を眺めていたら、ありました、興味そそられる本が。せっかく行って時間かけて見たのだからやはりせめて1冊は手に入れたい。中を眺めて、うん、面白そう。ということで買いました。

もう何年も前、私にしたら危機感を覚えるほどモチベーションが低下していた時があって、どうしようもなくて何の目的もなく本屋さんに行って、ぼんやり本棚を眺めていて、目が留まった本を手に取りました。「モーツァルトが求め続けた「脳内物質」」というちょっと怪しげなタイトルの本です。それを見つけた段階ですでに私の中で低下していたモチベーションが上がりはじめました(まだ読んでないのに、なんで?)。そして読んでみて、まあ内容はなんともですが、とにかくその本を見つけたことが1つの転機となりました。なぜかはよくわかりません(笑)。本の中身はあまり覚えてないのですが(笑)、そういういきさつのある本なのでタイトルは覚えています。
私は決して読書家ではなく、はやってたり、皆が面白いと言ってても、実際読み始めて興味持てなかったらそれ以上は読めません。でも、本は時として大小さまざまな気づきを与えてくれたり、発想の転換のきっかけとなります。今回買った本からもきっと何かを得られるのではと期待します。

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2016年07月23日

BGM向けの曲

今日は一乗寺の「いるか喫茶バー」でBGM演奏してきました。今日もオリジナルを20曲以上用意していきました。
お店の人からは途中で休憩をと以前に言っていただいていますが、その間普通のBGMに切り替えるのもどうだろうと思って、結局1時間半通して弾いています。時間があるから、今日はやめとこうかなと思ってた懐かしの曲のアレンジしたものも弾きましたが、ちょっと練習不足でした。次は多分全部オリジナルで曲も増やします。
もともとBGMを前提に作曲してるわけではないのですが、穏やかな曲が多いのでちょうどいいかなと思っています。でも、もっとBGMに向いた曲を作ってもいいかな、どうしようなかと考えます。
たまに行く服屋さんでかかってるBGMがよそと少し雰囲気が違うから、たずねてみると、やはりそのお店に合わせて作曲してもらってるということでした。それは抑揚が少なく、くり返しが多い感じでした。でも何となく印象的で、こういった曲がBGM向けなのかなと思ったりしました。ちょっとトライしてみます。
来月の演奏は27日です。

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2016年07月17日

音楽でストレス解消!

今日は非営利団体「パルヨン」という、日本に住む外国人女性とその人たちを支援したい日本人をつなぐ団体の会に行ってきました。「パルヨン」というのはフィンランド語で「たくさん」という意味だそうです。私は音楽を使って何かできないか、あらかじめ代表の人にメールで問い合わせていましたが興味をもってくださったので行くことにしました。今日は定期的な会で、日本で暮らしている上で困ったことなどを外国の人たちから聞いて、日本人が答えるという形で皆で色々な話をしました。外国の皆さん大体日本語をしゃべられるので、コミュニケーションはしやすかったです。
やはり外国で暮らすということは大変で、ストレスを感じることも多いようです。私の提案した音楽イベントは、一部の人たちの感想しか聞けませんでしたが、ぜひ秋にやりましょうという方向で話がすすんでいます。皆ですぐにできることと言えば、やはり「歌」だと思いますが、それに加え「踊りたい」という希望も聞けました(笑)。歌ったり踊ったり、それはやはりストレス解消にはいいと思われたようです。こういったことは、案外、提案してみると喜んでもらえるのですが、なかなか機会はないのですね。やはり誰かがやらないと。
ひと時、音楽を楽しんだから、皆さんの抱えている問題や悩みが解決するわけではないと思いますが、心を解放してリラックスできる時間は少しでもあった方がいいのではと思います。


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2016年07月09日

「自由」について

金曜日の夜、ある人のプライベートパーティーに呼ばれて行ってきました。そこであるフランス人の女性と話をしました。彼女は長年日本に住んでいる作家で、日本の文化にもかなり詳しく、もちろん日本語も普通に話します。色々な話をしている中で、「自由」がテーマに……

私は、クラシック音楽から色々なことを学んできましたが、クラシック音楽は「こうあるべき」という観念が強いジャンルだと思うし、そういった意味で本来自由に楽しむはずの音楽とのかい離を感じることもありました。バッハにしてもモーツァルトにしても、特に古い時代の作曲家はそこまで後世の人に対して、こう演奏してもらわないと困るという思いはなかったのではと思います。原典版もあまり何も書いてないですものね。
『正しい楽譜の読み方』(大島富士子著)という本の中にも、バッハの時代は、楽譜を、自分を知っている、自分の音楽を理解できる人間のためにだけ書いたので、細かい指示はなかった、ということが書かれています。その頃の作曲家はまさか、自分がいなくなって何百年たっても自分の曲が演奏され続けるなんて夢にも思ってなかったのではないでしょうか?
今では、演奏解釈についての本がたくさんあって、それらを読んでいるとある程度の共通認識もあり、「こう演奏するべき」という基本的な「きまり」のようなものは、歴史の中で構築されていったような感じがします。
ピアノ教室などでもそのようなきまりは、ある程度共通しているように思えますし、もちろん、その中から学ぶこともたくさんあると思います。長年かけて研究されてきたことには価値もあり、それらを自分の糧にすることは大切なことだと思います。

ある程度の解釈の自由というものがあると思いますが、それもあくまで当然オリジナルを尊重したものであるべきというのが、一般的な考え方ではないでしょうか?

クラシック音楽の素晴らしさを享受しつつも、私が曲を作りだしたことは、「自由」を求めた必然だった気もします。自分の曲なら、このように弾かなければならないということはないわけで、どのように弾くのがよりいいか、弾きながら自分で考えていけばいいわけですし。でも、凡人だから長年の経験や学びがなければ、このようなことはできなかったと思っています(別にたいしたことはしてないのですが💦)。

今でもクラシックの曲を弾いて学びつつ、自分の曲を弾くことで精神の自由を感じているというようなことをフランス人女性に話すと、自分の曲でも繰り返し弾くのなら、即興演奏でない以上、自由ではないのではという感想がかえってきました。さすが、「自由」にこだわるフランス人!かもしれません。
確かに、曲を作っているときが一番自由を感じているかな。でも、演奏してる時もです。何を自由と感じるかは人それぞれなのかもしれませんね。


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2016年07月05日

モーツァルトを弾いて思ったこと

今日は久しぶりにモーツァルトをたくさん弾きました。毎日毎日ピアノを弾いたり、曲を作ったりしていると、少しずつ自分が変化していて、そのことを今日モーツァルトを弾いていて感じました。新たな気づきがあり、でもそれが具体的に何かというと難しく、ただ、この巨匠から学ぶべきことはまだまだたくさんあると思いました。当たり前でしょうけど。
音楽が前へ前へと進んで行く中でおこる心理面への影響は興味深い。わくわくしたり、はっとしたり。何がそうさせているのか、それを弾きながら感じることが私の学び方のひとつです。
日々の変化はわかりにくいけど、ある程度の時間が経過して自分が以前と変わったと実感できた時はうれしい。人との比較ではなく、自分が変わっていけることがおもしろい。こんな調子でやっていけたら幸せです!


posted by yoko at 23:05| 京都 ☁| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月04日

名前が決まらない!

さて、今から手書きの楽譜をパソコンに打ち込もうと思って、ああ、またタイトルが決まってないとストップ。
前にも同じようなことを書いている気がしますが、曲ができてからタイトルをつけるのはなかなか難しい。たまたまタイトルのような言葉を先に思いついて、曲を作る場合はイメージを膨らませばいいので、やりやすい場合もありますが、その逆は抽象的なイメージを何かの言葉で表すことになるから難しいのだと思う。音楽は音楽だとよく思います。
先日もスタジオで録音してきて、まだタイトルが決まってない曲があって、なかなかアップできなかった。何日も考えてたんですけど。曲作るより時間かかってる。
絵画でも「無題」というのもあるし、そういうのにしようかと思ったけどそれをやりだしたら、無題1、無題2、と無題ばかりになりそうな気もするから(笑)、とりあえず、なんかぴったりじゃないなと思っても名前はつけようと思います。一旦決まれば、だんだんなじんでくるし。

今これ以外に、作りかけの曲が2曲。まだ名前はありません💦。

posted by yoko at 23:34| 京都 ☁| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月18日

BGM演奏

今日は一乗寺の「いるか喫茶バー」で1時間半、BGM演奏してきました。お店の名前は村上春樹の作品に出てくる「いるかホテル」にちなんでいるそうです。マスターのこだわりが感じられるお店です。
ゆっくりと静かな時間を過ごすような雰囲気なので、音楽もそれに合わせられるようにと演奏したつもりではあります。BGM演奏がいいなと思うのは、聴く側、演奏する側があまり構えずにリラックスして音楽を共有できることかな。でも静かなお店だから、ちゃんと弾かないと雰囲気こわしそうとも思いました。
静かめのオリジナル曲18曲と、編曲を7曲用意して行って、ぱらぱら譜面をめくりながらランダムに弾きましたが、2曲弾きそびれました。途中で休憩してくださいねと言ってくださいましたが、結局ずっと弾いてました。
ちょっと物語の、ある場面のような感じもするお店で、そのお話に何か添えるような演奏ができたらなと思います。来月は23日です。

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2016年05月31日

バッハを弾く

ダニエル・バレンボイムは『バレンボイム音楽論―対話と共存のフーガ』の中で「私はバッハで育った」と書いています。またバレンボイムの親友であるエドワード・サイードも『サイード音楽評論 2』の中で「ショパンもシューマンもリストも、さらに彼らに先立つベートーヴェンもモーツァルトも、みんな揃って『平均律クラヴィーア曲集』で育ったようなものなのである」と書いています。また、シャルル・ケクランの『和声の変遷』の中の「近代の対位法技法」の中でも、「近代では、どの若い作曲家もバッハを研究しないものはないし、また―各人各様に―バッハの影響を受けないものはない」と書かれています。
ショパンがいつも平均律クラヴィーア曲集を弾いていたという話は有名だと思いますし、シューマンを弾けばバッハを研究してたんだろうなと感じられます。

良さそうなことはまねをした方がいいかなと思うし、私も平均律クラヴィーアやその他のバッハ作品は毎日弾いてますが、一体なんと果てしない音楽の世界がその向こうにあるのだろうとただただ思うばかりです。
以前に分厚い本も買って最初は張り切っていくらか読んで、その後はまあまあ…。
とにかく何より弾くことによって音楽を感じ、旋律と和声の絶妙なバランスに触れ、自分の感性が磨けたらなと願っています。地道にこつこつと、でも楽しい!

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