2016年04月21日

音楽性というものは

少し前に、シャルル・ケクランの『和声の変遷』という本を買いました。京都芸大図書館で下見をして、欲しいと思っていました。でも古い本で普通の本屋さんでは手に入らないのでネットの古本屋さんで見つけました。紙は茶色くなってるし、所々鉛筆で書き込みもあり(消しゴムで消せるからよかった)、少したばこのようなにおいもしますが、それでも見つかってよかった。

譜例がたくさんあって、音を出しながら読み進めていていますが(参考になってるかどうかわかりませんがとりあえず)、音を出せる時間帯はなるべくピアノの練習や作曲などをしているので、なかなか先に進みません(ようやく5分の1くらいで止まってます)。でも、すでに興味深いことがいくつかあって、それは理論についてというより、音楽への向き合い方のような考え方についてです。

一例をあげてみます。途中の「特殊例」という章に次のようなことが書かれています。

「和声学の法則や禁止が現代の音楽家によって大抵は破られている。五十年前の人たちはそれほどこれらの法則を犯さなかった。そして十八世紀 ―あるいはそれ以前の― 大家たちは、これらの法則とは全然ちがう用例をしめした。ベートーヴェンの考え方(彼曰く、“法則は私のする通りになっている”)や、グルックの考え方(“音楽として要求されるならば、私の犯さなければならぬと信じたものはもはや法則ではない”)については既に誰もが知っていることである。」

(中略)

「音楽性というものはきわめて神秘である。どの作曲家もみな同じ音楽性をもっているということはない。ただし音楽性が存在するという点では、すぐれた音楽家たちはみな共通している。(しかし場合によっては意見の異なることもある)
“美の法則”を数理的に樹立しようという理論にとっては、音楽性というものは厄介なものである。“芸術の数理的理論”というものは論じる価値はあるが、それは量的には説明しえない要素を含んでいる。つまり、その要素というのは、質的なものであって量的なものでないところの人間の感情である(ベルグソン)。
この人間的な要素がつねに芸術の根底にある。それは数だの大きさだのによっては分解できないものである。人間の魂とその表現(芸術の物的手段によってなされる表現)、この間の関係は、心と物、質と量、無限と有限等におけると同様に神秘なものである。
したがって、過去および現在の大家たちの作品に見出される数多くの特殊例は一々非難したり懸念したりする必要はない。今日以降も、またちがった特殊例が見出されるであろう。そして、それらはすべて理論では証明できぬものであろう!」

“人間の魂とその表現”。まさに、日々その狭間を行き来している気がします。音楽性とは神秘であり、無限ですね。どこにも答えはないから終わりがない。

理論の部分はまあまあ適当にとばしつつ目を通して、こういった部分は何度も「そうそう」と思いながら読み返している感じです(笑)。


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2016年04月19日

楽しみにしてくださる方たちに感謝!

月曜は児童館の「ピアノに合わせてあそぼう」の日でした。今日も多くの親子が来られてて(生後1か月の赤ちゃんも!)一緒に楽しい音楽の時間を過ごしました。プチコンサートではシューマンの小品と自分の編曲を。
帰り際、あるお母さんと少しお話をしたのですが、その方が、ピアノのイベントは子どものためというよりお母さんが聴きたいから来てるんですよ!と言ってくださいました。その方は以前も私のアレンジした曲について質問されていたし、音楽好きな方だとは思っていましたが、とてもうれしかったです。お母さん方から直接感想を言われることは少ないので、どう感じてらっしゃるかはいつも気になっています。色々な曲を弾きながら、ささいなリアクションを察知して(笑)、それなりに感じてはいますが。スタッフの方から音楽好きな方たちが来られているようですよ、とは聞いています。

3月の子育て講演会で弾いた「きらきら星変奏曲」(モーツァルトじゃなくて私の簡単な)がとてもよかったとも言ってくださいました。
実はこのあたりの曲は、誰もが知っているような曲を編曲したもの(なるべくわかりやすい感じで)もあった方が、楽しんでいただけるのではと思って作っています。なので、私が今作っているような曲とはだいぶ感じも違うのですが、ここが悩ましいところです。自分が作りたいものと求められている気がするもののギャップがあるよな〜と。まあ、多分どちらも作ることになるかな?
小さい子がいたらなかなか聴きに行ったりできないじゃないですか、という言葉を聞くと、そういう人たちにとってのささやかでも楽しみの場であるならうれしいことです。


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2016年04月17日

緑の中の工房

今日は、夫がリフォームの設計をさせてもらった友だちの工房をのぞいてきました。なかなかいい感じになっていました。
建物のどの窓からも緑が見えます。まさにピクチャーウインドウ! 常に変化し続ける、生きた「絵」ですね。なんとぜいたくなことでしょう。
友だちは、毎日自然からエネルギーをもらって、ますますパワーアップしそうです。

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2016年04月01日

インディーズ映画上映会

おととい、京都国際インディーズ映画祭を運営されている京都メディア・アート・ラボ企画の上映会へ行ってきました。場所は室町御池上るの『遊子庵』。町家です。
スタッフの方も入れて10人ほどのこじんまりした上映会でしたが、TVF(東京ビデオフェスティバル)の受賞作のうち短い映画を4本(ドキュメンタリー3本、アニメーション1本)を鑑賞し、映画の間や終わってから映画の話やさまざまな話をたくさんしました。
京都国際インディーズ映画祭は今年で10年目ということでTVF(東京ビデオフェスティバル)からTVF文化功労賞を受賞されたそうです。
私はたまたま今回の上映会を知って、ぜひ行ってみようと思いました。インディーズ映画でどんな音楽が使われているか興味があったからです。
ドキュメンタリーの3本は、どれも重たいテーマでインタビューをメインとした構成になっていて、そういった映画に「音楽いる?」と感じられないようにさりげなく音楽を入れるのって難しいのではと思いました。3本とも音楽は控えめでした。
アニメーションは、より音楽は自然な感じがしました。物語であるし、音楽自体も良かったのではと思います。

映画も皆さんのお話も興味深く、楽しい時間を過ごしました。


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2016年03月19日

グリーグ節?

昨日スタジオで録音したのは、昨年作ってすでに家で録音している曲ばかりで、今も何曲か作りかけていますが、なんとなく気持ちを新たにしたいような心境で、はたと、グリーグの「抒情小品集」を弾こうと思いました。
どの作曲家の作品もですが、曲を作り出してからはそれ以前よりも興味深く感じられます。
グリーグの抒情小曲集は短めの曲ばかりで、私が曲を何曲か作った頃に私の抒情小曲集を作っているような気になったことがあります。以前に何曲かは弾いたことあるのですが、弾いたことない曲の方が多くて、最初から順番に弾いてみるとおもしろい。昔、舘野泉さんの演奏をCDで聴いていたことがあり、一応66曲全部知っていますが、聴くのと弾くのとではやはり弾くのがおもしろい。さらさら弾けなくても、音を出すことそのものが楽しい。特に今はたくさんの発見があり、わくわくします。
グリーグは北欧のショパンとか言われているようですが、独特のムードがありますね。グリーグ節なのか、北欧節なのか(笑)? 民族的な雰囲気と現代的な響きがある。けっこう凝っている。
そもそも、民族音楽は西洋音楽の短調、長調にあてはまらないものが多いから、そういう要素が入ると調性があいまいになって、現代的な響きにもなる。
おもしろがって、全部弾こうかと思いましたが、30曲くらいで3時間近くかかった(ゆっくりめに弾いたので)からあきらめました(笑)。また続きは今度。


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2016年03月14日

ロームシアターへ

日曜日、夫とロームシアターへ行ってきました。1月にオープンしたから一度見てみたいと思って、先月行ってみようかと行ってみると京都マラソンのために閉まっていました。岡崎エリアはゴールなんですね💦。

特に用はなかったのですが、建物を見るのと、蔦屋ができたからのぞいてみるくらいのつもりで行きました。改築した部分と新築した部分があると聞いてましたが、落ち着いた雰囲気でなかなか良いのではと思いました。でも蔦屋とスターバックスができたり、横の公園とつながったりしたからでしょう、オープンな感じになり人もたくさんで、京都会館の時よりもだいぶにぎわっているのではないでしょうか。コンサートがなくても行ける場所になりました。
実際、私たちも市立美術館や府立図書館のあるこのエリアには時々行きますが、私は京都会館は多分10代の頃から行ってないです(何十年も!)。今回の増改築によって、人がたくさん来る場所となり、建物がより生かされるのは良いことだと思います。


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蔦屋の3階は図書館のような閲覧コーナーがあり、数はそんなに多くないですが(アート系が多い。それでもわりと色々な本がある)、お茶を飲みながらゆっくり読書ができる!というのがすごい。私たちもスターバックスでコーヒーを買って3階へ。

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パラパラと本をながめ、それから同じ階で上映されていた、小澤征爾さんの音楽塾で公演されたラヴェルのオペラ『子どもと魔法』を見ました。部屋は開けっ放しで出入り自由、小さなスクリーンの前に椅子が並べられていましたが、人もまばらで途中で出ていく人も。40分ほどの劇でしたが、私は特に音楽を興味深く聴きました。終わってからポスターがすてきだったから写真を撮ってもいいですかと聞くと、だめといわれました(なんでやろ?)。あまり人も見に来てなかったし、宣伝になると思ってくれればいいのに、残念です。

今はまだ観光客の多くない季節だと思いますが、もうすぐ桜です! すぐ横は桜の名所のひとつ平安神宮。すでに蔦屋の店内はスターバックスのコーヒーを注文する人の列で混んでましたが、なんかすごいことになりそう(笑)。



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2016年03月10日

京都芸大の図書館へ

今日は京都市立芸術大学の附属図書館まで行ってきました。探している本が何冊かあったのですが、どれも出版されたのがずいぶん昔で、本屋さんにはもちろんなく、市立・府立の図書館を検索しても見つからず、学術書のデータベースをネットで調べていたら京都では芸大などにあることがわかりました。

そのうち『和声の変遷』(Ch.ケクラン著)と『近代和声学』(松平頼則著)は図書館の書庫から出してもらいました。あとは本棚をチェックして目当ての本やそれ以外の面白そうな本を何冊かぱらぱらとめくったり、気になるところは読んだり。大学は春休みでしょうから、人もまばらで2時間ほどゆっくりと読書できました。学生ではないから閲覧のみなので、後からまた調べたり、買ったりするために本のタイトルや出版社をメモしました。

上の2冊はやはり良さそうなので、なんとか古本を手に入れたいと思っています。その他にもぜひ欲しい本が。

私の読む本は、ほとんど実用的な本ばかりですが、知識を得るだけでなく多くの気づきがあります。もちろんそれは著者がある信念を持って書いている本だからです。そういう本に興味をもちます。知識の方は忘れたらまた調べればいいのですが、気づきは自分の考え方を変えたり、その後の取り組みを左右するほど影響力があることがあります。

つい最近は『和声の歴史』(オリヴィエ・アラン著)と『和声の変貌』(エドモン・コステール著)を図書館で借りて読んでいて、なんかタイトルに「和声」がつく本ばかりですが(笑)、自分なりに追求していることがあってのことです。自分の中にぼんやりした疑問があって、そのことについてある程度納得できる答えを導きたい。
『和声の歴史』はとてもよかったので、また別の機会に書ければと思いますが……

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2016年03月07日

「子どもにとって音楽って?」

今日は近くの保育所・児童館の「子育て講演会」を担当させていただいて、午前中1時間、お話や演奏・伴奏などをしてきました。毎月保育所2階の児童館の「ピアノに合わせてあそぼう」でピアノを担当していますが、子育て講演会ではテーマもプログラムも全部私が考えてやらせていただきます。
昨年もやらせていただいて、その時は子どもの聴覚やリズム感、子守歌などを中心とした内容でした。
今回は「子どもにとって音楽って?」というタイトルにしました。

サブタイトルは
・「子どもにとって音楽とは?」
フリッツ・イェーデの「子どもは喜びの気持ちを歌にする」という言葉などを引用して、子どもは生きている喜びを音楽を通して表しているというようなお話です。

・「なぜ音楽が大切か?」
音楽は人間のコミュニケーションの一つのかたちであり、音楽を使ってコミュニケーションの力をつけていくという側面からお話しました。

・「どのような音楽環境を作ってあげようか?」
何か特別にというより、安心して楽しみながら音楽体験できることが良いということ。童謡やわらべうたなどやさしい音楽がよりまねしやすく、歌やおどりを通してみずから表現するという行為につながっていく。

おおざっぱに言えばお話はこんな感じの内容でした。

演奏は私のオリジナル曲を4曲、編曲したものを2曲(きらきら星、チューリップ)やりました。チューリップ変奏曲が子どもたちもよく体を動かして反応してくれていたようです。
この曲はわりとリズミカルですが、やはり子どもはリズムが好きかな(去年したお話)。

保育所の担当の方の提案で、パネルシアターをプログラムに入れました。「はらぺこあおむし」でピアノ伴奏はリズミカルだったり、しんみりしたり、よくお話に合わせて作られています。

それから、「即興わらべうたつくり」というのをやりました。2つの音でわらべうたができてしまうということを説明して、実際に適当にファとソの音をランダムに並べかえて歌ってみるとわらべうたに聞こえるでしょう?と同意を求める(笑)。あとでスタッフの1人が「そうなんや」と感心してました。
お母さんたちに、ぜひおうちで試して、お子さんに歌ってみてあげてくださいねと言いました。試してくれるとうれしいな。

最後は、昨年リズム遊びのために作っていただいたビーズなどの入ったかわいいマラカスをみんなに持ってもらって、森のくまさんやおもちゃのチャチャチャなどを歌いました。
今日のお話のまさに、安心して楽しみながらの音楽体験だと思います。実際歌が歌えるお子さんは少なかった(まだ小さくて)と思いますが、お母さんは歌っているし、マラカスは音がするし、楽しいという感覚は持ってくれてると思っています(毎月のイベントでも)。

いい講演会だったかどうかわかりませんが、しゃべったりピアノ弾いたりでなかなか濃い、楽しい1時間でした。


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2016年03月01日

『オペラをつくる』より

『オペラをつくる』(武満徹・大江健三郎著/岩波新書)という本を多少おおざっぱに読みました。この本は1990年に出版されています。武満さんが66歳で亡くなる6年前です。
実際に具体的なオペラ作品をつくる過程というよりも、ブレーンストーミングを行っているような内容で、様々な小説、映画、オペラを例にあげ、表現ということについて多くのことが考察されています。
武満さんがオペラに興味を持ち始めたのも、既成のオペラの影響よりも、文学、映画、演劇などの表現方法から色々な刺激を受けてのことのようです。

ここに紹介されているような、小説、映画は恐らく私はあまり読んだり観たりしたくないようなものが多そうだなというのが私の感想ですが(経験上、いくらそこに多くの意味が含まれていても読んだり観たりしたあとに気持ちが重くなるものが苦手なので)、その肝心な作者が作品で表現したいもの、その手段などについて両者は語っていて、物語についてはごく簡単な説明のため、あまり重い気持ちにならずに(でも想像してしまう)そういう見方もあるのか、と興味深く読める部分がたくさんあります。

武満さんは音楽家として、大江さんは作家としての表現について多くを語られていますが、やはり作曲家の武満さんの言葉により興味があります。音楽やそれ以外のことから何を感じていらっしゃったのか。少し長いですが、そのうちの一部分を引用したいと思います。

「こんなことは人に話すことではないし、ことに音楽を専門としている人が聞いたら笑うかもしれないけれども、僕はどういうわけか、鯉の滝上りじゃないけれど、歴史を逆に歩いている、音楽史を逆に歩いているみたいなところがある。やっと最近になって古いものに興味を持ち出してきた。自分ではそのことを非常に警戒しています。老化じゃないか、精神が弱くなってきているんじゃないか、肉体が衰えてきたから精神も弱くなってきているのじゃないかなどと思いますが、そうとばかりも言えないたとえばモーツァルトを聴いたり、ベートーヴェンを聴いていると昔よりたいへん打たれるときがある。それはどういうことに打たれるかというと、僕も曲がりなりに音楽を三十年以上やってきて、ある程度技術的、経験的に、自分の技術でこういう音楽をつくることができるといちおうはわかる。しかし、モーツァルトをなにげなく聴いているとき、自分がいままで取得した技術で、これはこうなっているからこういうふうにひびいているのだということはわかる。
ところが真面目に、僕が主体的に真面目になるのではなく、モーツァルトの音楽がたまたま真面目にさせるのですが、ちょっと聴いてみると、僕はとてもこういうふうにはできないという異常なものが見える。
それは具体的にどんなことなのかというと、たとえばモーツァルトの晩年のシンフォニー(四十番)をみると、主題である旋律は実に簡単なものだ。たった二つの音しかないのですが、それですべての音楽の力学というか、これは西洋音楽のことですが、はっきりわかる。たった二つの音のつながりだけなのに、そこに他の音楽とはまったく異なった独自のひびきの世界がある。そういうことがなぜ生ずるのかということは、いまの僕には非常に大きな問題なんです。
自分の技術でいろいろな旋律をつなげてあるアラベスクをつくって、おもしろい音響空間をつくるということは、さほどむずかしくはないです。ところが、たった二つの音で、これはベートーヴェンもそうです。タタタターン(運命)。そこに総体としてあるものの重さは、そんなに単純なものじゃないということがわかるのです。それはある程度自分が音楽をやってきて自ずからわかってきた。そうしたことを理解できるようになったことが、はたしていいか悪いかはわからないです。モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、"最後の作品" といえるようなものを書いている。そういうものをいくらか理解できるようになった。感覚的にも理解できるし、知的にも理解できる。総体として人間の表現というか、それを書かずにはいられなかった人間というものをいくらか身近なものに見えるようになったのです。
それは作曲の技術とか、そういうことで言えばなんでもなく解析される事柄でしかないのですが、しかし、たった二つの音をつないでいる意思というか、それは物理では説明できないものです。そういうものが人間を動かしている。そうなってくると西洋音楽だろうが、アフリカの音楽だろうが、東洋の音楽だろうが、なんの関係もないのではないかと思えてきます。
そうした根底的に、普遍的な原理というものは、大きなオペラをつくるときにことに大事なのではないかと思います。非常に単純でいて複雑。うまく言えませんが、自分が音楽をやってきて、直感的にそう思うようになってきた。しかし、自分がこういう音楽をやってきて、最初に西洋の音楽をはじめて、途中で伝統的な日本の音楽に気づいたり、他の音楽に気づかされたりして、しかもやっぱり西洋音楽のなかにある ― もちろん西洋の中にもつまらない、装飾的な、芸術音楽としてつまらないものがあり、おもしろかったり、慰められたりするものはあるのですが、そうじゃなくて ― 本当に最初のもので、同時に最後のものであるようなもの。永遠なるものをいつももっているようなものが、西洋芸術のなかに多くあるのではないかと思います。」

この始めのあたりを読んで、私はどちらかというとバロックからロマン派くらいまでの形式に無意識にとらわれていた部分があると最近意識し始めたので、逆かな?と思ったりしました(振り返ればロマン派のあとの作品よりもはるかに長い時間それ以前の作品に接してきている)。
それで引用して記事にしてみようと思いました。そこから後の部分もいいことが書いてあるので続けました。

武満さんはドビュッシーが好きなようでしたが、ドビュッシーは古典的な手法をどんどん壊していったような人で、武満さんはそのあたりからスタートして何年もたって古典に向き始めた。
私はむしろ、もっと新しいものを聴いたり研究した方がいいなと最近思って、すでに取り組み始めています。
好き嫌いはともかく、それほど積極的でなかった新しめの音楽も聴くようにしています。やはり選曲はしますが(無理なものは無理(笑))。そうすると案外、いいなと思うものにも出会います。シャルル・ケクランやその弟子のタイユフェールなども最近聴いている作曲家の一部です(クープランもケクランの弟子と最近知りました)。

実際武満さんは、1994年のリヨンの新しいオペラ劇場こけら落としの作品を委嘱されてたんですね。
志半ばで、さぞ残念だったと思います。


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2016年02月18日

久々にシューマン

今日はものすごく久しぶりにシューマンを弾きました。しばらくほとんど興味を失っていたんですけど(笑)。なんか、ふと弾いてみようと思いました。ダヴィッド同盟舞曲集や謝肉祭などから、ちょこちょこ選んで。弾きだすとおもしろくて1時間以上すぐにたってしまいました。シューマンの作品ってバラエティに富んでいると思うんですね。
曲を作り出してからシューマンを弾くのは初めてのような気がしていますが、やはり以前と比べると弾いてて色々と気づきがある。他の作曲家もそうですが。
これまで作曲関連の本は色々と読んでいますが、あまりおもしろいものではない(笑)。実際、それを読んだから曲をつくれるわけでもない。自分の好きな曲こそが、興味と感動をもって向き合える最高の教材です。わくわくしたり、ジーンときたりするその体験こそが今まで積み上げてきた財産です。

春ごろにはスタジオ録音したいなと思っていて、そのために練習をしたいし、新しいアイデアがどんどんあるので曲も書いてるし(前よりいいのを作りたいと思うので止められない(笑)、クラシックの好きな作品を弾いて感動してそれを栄養にしたいし、なかなか時間の配分が難しいです。


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2016年02月12日

「即興曲」とは

「即興曲」をネットで調べると、例えば「19世紀の器楽曲の曲種の一つ。即興演奏によって作られるのではないが,楽想を即興的に自由に展開した小品。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)のように説明されています。
つまり、即興で弾くというのはその場で弾くことだけど、即興曲はそうではないということです。即興演奏といえばジャズを思い浮かべますが、前回のブログでも少し書きましたように(山下洋輔さんの話)、何のストックもなしにはできないわけで、音楽経験からたくさんの音楽的要素が頭の中にたくさんあってそれを使うということですね。例えばほとんど音楽を聴いたことも演奏したこともない幼児が楽器で何かを弾いたとしてもそれは音の羅列であって、音楽ではないでしょう。

私は昨年から作曲・編曲をしていますが、今まで録音していないものも含め小品を50曲以上作りました。特別、作曲法というようなものを意識せず、頭の中に浮かぶモチーフからどんどん曲を作っていきました。それで、改めて私の作ってたのは即興曲に近いなと思ったのです。まさに、「楽想を即興的に自由に展開した小品!」。どうして曲ができてしまうのかといえば、それは私の頭の中にたくさんの音楽があるからで、人前ですらすら即興演奏はできませんが、少し考えながら次々と浮かんでくる音楽を楽譜に書いていくことはできる(作品のできばえはさておき)。

最近そのことに思い至り、今作っている曲も作り方は近いですが、少し時間をかけていじっています。それはそれでおもしろい。今後は少しずつやり方も変わっていく予感。

今日はダブリン(アイルランド)の作曲家がフォローしてくれました。まだまだフォロワー少ないですけど、英語で発信していれば音楽をキーワードに世界の人とつながれる楽しさがあります。ほんとうにわくわくします。


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2016年02月11日

新しい音楽ジャンル?

ツイッターで色々検索しているうちに、ついにとても興味のあることを発見しました。ただ漠然と検索していたのではなく、日頃から気になっていることに関連したキーワードで。
それは「NEW MUSIC」で、どうもひとつの音楽のジャンルのようです。それも、関連するアカウントは今のところアメリカばかり。アメリカ以外ではまだないジャンルかも? 私が知らなかっただけ?(日本でニューミュージックといえば昔そういうジャンルもあったけど、全然違う。)
それでそれがどういったものかとはっきり定義できるほどわかってないのですが、私がクラシックの延長上にあると認識している現代音楽(現代の作曲家によるクラシックのジャンル)とは一線を画したもので、オーケストラから多ジャンルとのコラボまで幅広く、あまり既成の概念にとらわれていない音楽活動をしているジャンルのようです。
「NEW MUSIC」をキーワードにつながりを作るような動きもあり、私も興味をもったので関連するアカウントをいくつかフォローしたり、リツィートをしたりすると、私のことをそういった人たちのリストに加えたりする人もいます。

様々な楽器の人がいますが、ピアニスト、作曲家が多いという印象です。やはりアメリカ人が多いようです。
音源もたくさんあるので興味のあるものは聴いていますが、その中で二人、コラールを作曲している女性の作曲家がいてかなり感動しました。

以下Daleさんの音源です。

Dale Trumbore | Choral Works(蝶々の写真があります。念のため)

私もコラールを研究してみようと思って、さっそくバッハの四声コラール集を入手しました。そのことをDaleさんに伝えたら、ちょっとユーモアのある?短いアドバイスをくださいました。それに対して、作曲家の中にはバッハのコラールで和声の勉強をすることを勧めている人がいるけれど、あなたのアドバイスも役立ちます。目標は良い音楽です。と返したら。「いいね」で締めくくってくれました。

今、プーランクの楽譜もちょっと分析したりしていますが、バッハのコラールを弾いてやはりいいなと思い、そして現代のすばらしい作曲家にも出会い、新旧関わらず日々いい音楽からたくさんの刺激を受けています。
山下洋輔さんと茂木健一郎さんの対談形式の『脳と即興性』(PHP新書)の中で、山下さんが即興のために必要なことのひとつとして、たくさんの音楽を自分のなかに持っておくことということを書かれていたと思います(返してしまったので多少あいまですが、そんな意味のこと)。それは作曲にも当然必要なことだと思います。

結局たいしたことはできないかもしれないですが、意欲のある限り取り組んでいこうと思っています。


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2016年02月03日

クラシック音楽におけるポピュラー性とは?

シェーンベルクの『作曲の基礎技法』の中に、「ポピュラー調」、「ポピュラー性」という言葉が出てきます。前回のブログで武満徹がポピュラー音楽を嗜好したという、一柳彗さんの分析について書きましたが、例えばシェーンベルクは次のようなことを書いています。

「シューベルトの多くのメロディーがポピュラー性をもっているのは、ポピュラー音楽に見られるように、一つのリズム形が、たえず反復するからである。しかし、シューベルトのメロディーの高貴さは、そのゆたかな旋律線のなかに、本来のものとして秘められている」

また、

「彼らは、自分のテーマに、ちょっとした「ポピュラー調」を求めた。
(彼らはクラシック音楽の巨匠のこと)

クラシック音楽における、ポピュラー性とはやはりその言葉のとおり、わかりやすさ、親しみやすさということになるような感じですね。
バロック、古典、ロマン派(後期途中くらい?)くらいまでのクラシックはそういう意味ではわかりやすい、感情移入しやすいものが多かったのかもしれません。その後、だんだんとポピュラー性を排除していった(それが目的でなくても結果的に)のが、一般的に現代音楽と呼ばれているものでしょうか。

私はやはり自分の音楽を、「わかってほしい」からポピュラー調路線ですね(笑)。


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2016年02月01日

一柳彗さんの語る武満徹

作曲家でピアニストの一柳彗(いちやなぎとし)さんの『音楽という営み』(NTT出版)という本を読んでいます。1998年出版で少し古いですが、西洋と日本の音楽の違いを中立的な視点で分析されているなど、非常に興味深いテーマについていくつも書かれています。
この本の中の、「同時代の作曲家」という中で武満徹について書かれています。一柳さんは武満さんとのつながりが深かったようで、一柳さんの分析する武満徹像は興味そそられます。特に気になった一部を引用します。

「武満の音楽に対する姿勢は生涯ほぼ一貫していたと言ってよいだろう。たしかに、詩的なたたずまいのなかで緊迫感が持続する初期の作風とくらべると、七〇年代から晩年までの作品は成熟度が高まるにつれ、先鋭さが影をひそめてくる。晩年の作品では、古典的な三和音を意識的に用いた耽美的な音色や、たゆとうような甘美な旋律がしばしば用いられており、ケージが六〇年代に述べていた甘さがいよいよ目立つようになってくる。現代の作曲家で古典的な三和音を度々使用した作曲家は武満くらいであろうが、私にはそれは、クラシック音楽から援用されたものというより、武満のポピュラー音楽への嗜好がそうさせたものと受け取れる。

武満は自らを、ドビュッシーと関係づけて意識していた面があるようだ。ドイツの音楽の重々しい石の建築物のような有機的な構築性より、ドビュッシーの音楽が内在させている自然との交感や文学性、音楽的には多彩な音色や瞬間瞬間の独立した響きが織りなすテクスチュアに共感を覚えたのであろう。武満の音楽の洗練された内容は、たしかにドビュッシーを彷彿させるものがある。」

このあたりを読んで思ったのが、ここでいうポピュラー音楽とは何か?ということです。現代、音楽ジャンルとして一般的に言われているポップスやロックと言った意味ではないように感じました。より、一般の人(専門家、マニアではない)にわかりやすい音楽ということではないかということです。私も武満徹の歌曲は好きです。やはりわかりやすいからだと思います。「甘い」とか「ポピュラーである」ことは現代音楽の作曲家としては、あまり評価されないことなんでしょうかね? とても気になるテーマです。
ちなみにジョン・ケージは一柳さんに「私はトオルの音楽の甘さには耐えられないが、彼は人物としてはすばらしいと思う」と言っていたということです。

また、おもしろいなと思ったのは、ドビュッシーに傾倒していた武満徹は十代で一柳さんと付き合い始めたころ、作曲家になるか、美術評論家か迷っていたそうですが、ドビュッシーも音楽と同じくらい絵が好きで、葛飾北斎など日本の画家に強い影響を受けて作った作品もあるということです(ドビュッシーのエピソードは以前別の雑誌で読みました)。武満徹はドビュッシーの音楽の中にある「絵」を感じたのかもしれませんね。

私は武満徹についてはそれほど知りませんでしたが、一柳さんの文章を読んで興味が深まりました。実は私は人の作品ややっていることは内面の表れであると思っていて、その人が何を考え、どんな人物であるかということの方により興味を持ちます。例えばダニエル・バレンボイムの音楽はほとんで聞きませんが、彼の哲学には強い関心があります。そういう人は他にも何人かいます。一柳さんの曲もまだ聴いたことがありませんが、こんな素晴らしいことを色々考えている人がいたんだと思いました。音楽も聴きます、近々(笑)。

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2016年01月24日

音楽はどうあるべきか?

ツイッターでフォローしているオランダのピアニスト(Improvisation(即興演奏)を主にされているようです。)が先日次のようなことをつぶやきました(英語で)。

「音楽は美しくなくてもいいが、意味がなければならない」

彼の即興曲は美しいです。彼の曲を聴くまでは、即興といえばジャズか、よくわからない演奏などというイメージだったので、最初聴いた時は驚きました。

上のつぶやきが気になったので、リツイートする際次のようなことをコメントしました。

「普通の聴衆は美しさを求めるかもしれない。専門家や評論家は意味を求めるかもしれない」

そうすると、また返事がきました。

「聴衆に合わせて音楽を作るべきか?」

実はこれはけっこう本質的な課題だなと前から思っているし、どの時代の音楽家たちもこのことについて考えていたのではと思います。
ツイッターのような短い分の中で(英語だとなおさら書けることが限られる)、この難しい質問に対してどのように答えるかしばらく考えました。

答えになっているかどうかわかりませんが、次のように答えました。

「私に関して言えば、私の音楽は私自身であり、聴衆によって変わることはないです。聴衆の反応を感じた時、私は自分の音楽の意味を見つける」

短く書くために、このようにまとめましたが、彼は、そんな個人的な話ではなく、もっと音楽とはどうあるべきかということを最初に投げかけていたのだとは思います。

いつの時代も最先端を行く音楽家は、新しいものを作る使命を感じていたのだと思います。それは今も同じでしょう。
でも、作曲家の吉松隆さんも、音楽は行きつくとこまで行ったと著書に書かれていました。音楽をどんどん壊していって、ついにばらばらになってしまったというようなことを。

芸術はいつも新しいものを求めていかなければならない性質があるのかもしれません。

私にとって、私のできる音楽は人と共有するためのものと思っています。本来の音楽の役割でしょうかね。コミュミケーションするための音楽。
日々、過去の音楽家の作品に触れ、芸術の素晴らしさを実感しながら、人に聴いていただくための音楽に取り組んでいるという感じです。

このやりとりを見てかどうかわかりませんが、同じピアニストをフォローしているスイスのヴァイオリニストがフォローしてくれました。ほとんど日本語で書いてるんですけど、怪しい英語も混ぜながら書いていくつもりです。まだまだフォロワーは少ないんですけど💦。

posted by yoko at 23:59| 京都 ☀| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする